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インナーチャイルドときちんと向き合うために、己の足跡をふりかえるブログです。

2020.05.22.母子手帳

赤ちゃんの頃のこととか覚えてない… と思って、母子手帳を出してきたんですけど、2歳で斜視の検査で医大に行ったり、手足口病やったり、3歳半くらいの頃に肺炎で入院したり、4歳で水ぼうそう、6歳ではしか…とまあ、ほぼ毎年病院イヴェントがあり、本当に親は大変だっただろうな… と、つくづく思います。

 

父と母は、背景は違えどそれぞれ苦労して育ったひとたちです。まあ、私が生まれたのは地方も地方のド田舎で、親世代で苦労してないひとなんていないようなところでしたが。

父は終戦数か月前に満州で生まれました。生まれてすぐに父の母(つまり私のおばあちゃん)が亡くなって、私のおじいちゃんと大叔父さんがものすごい苦労をして、父と伯母をつれて内地に引き上げて来たそうです。その後おじいちゃんは再婚。つまり、私にとっての「父方のおばあちゃん」は、父にとってはいわゆる継母というわけです。その後、父方のおばあちゃんは実子である私の叔母をさずかりましたので、連れ子と実子が混在したきょうだいだったわけで、たぶん、親子関係きょうだい関係色々思うところがあったと思います。

その、父にとっての継母、わたしにとっての父方のおばあちゃん、も、若い頃にとても苦労をしたひとで、自分の苦労の経験から、絶対に子どもには学問をさせたいという強い信念を持っていました。子どもに高等教育を受けさせるために、と、獣医であった父方のおじいちゃんに起業を促し、実際に長男である私の父と、伯母と叔母を全員東京の学校に進学させたんですから、本当に信念の人だったんだなあと思います。

そうやって大学に進学、そして卒業後はおじいちゃんの興した会社を継いだ父は、しっかり親のレールの上を走る、まさにザ・田舎の長男って感じの半生を歩んできたわけです。跡取り息子なのでめちゃくちゃたくさんお見合いをして、最終的に母ともお見合いで結婚したのは31歳。当時にしてはかなり遅いです。いろんな周りからのプレッシャーに鬱屈があっただろうなーと思います。

 

父は、姉と妹に挟まれた長男でしたが(そして妹は母違い)、母は兄と弟に挟まれた長女でした。母がまだ、中学生?とかそのくらいに、母の父(私の母方のおじいちゃん)が重度のリウマチになり、一家の大黒柱が突如働けなくなってしまったそうです。当時はまだ林業がさかんな時代で、おじいちゃんは兼業農家で馬車引きをやってて、山から切り出した木を運んできたりしてたらしいのですが、もちろん退院したあとも力仕事はもうできなくなってしまったわけで。五十歳前にして、母方のおじいちゃんはほぼセミリタイアみたいな感じで、そのぶん母方のおばあちゃんが生命保険のセールスで稼いで、家事は子どもがやっていたらしいです。その後、母方のおばあちゃんはずっと保険の仕事を続けて、私が二十代なかばからおばあちゃんの部下になって働いたりするわけですが…

母の兄と弟も、当時の地方にしてはめずらしく、東京の大学に進学しています。たぶん当時って、田舎では高校に進学しないひともそこそこたくさんいたはずなので、父も母も当時としてはかなり高学歴だったはずです。母方のおじいちゃんおばあちゃんは、母のことも大学に行かせるつもりがあったようですし、母は高校時代成績も良かったようですが、母自身は親が三人の子どもを大学に行かせることの経済的苦労などを鑑みて、自分で勝手にさっさと東京に就職を決めてしまい、上京。高給取りで数年勤めて、なんだっけ、忘れちゃったけどおじいちゃんかおばあちゃんが病気して実家に戻ったんじゃなかったかな… そう長く働いたわけではないけど、当時の同僚とは今でも仲良しです。そして、実家に戻って、まあ結婚してもいいし、結婚しなかったら北海道に行ってホテルに勤めたいなと思ってたらしいですが、八歳年上の父とお見合いして、ティンと来て結婚したそうです。

 

まあ、そんな背景があって、結婚1年くらいで生まれたわたくし。

いやあ、かわいかったと思いますよ(笑) なにせ、結婚の遅い長男、しかも会社経営してて後継ぎ必須というなかでの待望の第一子。父方の伯母(父の姉)にはすでに二人子どもがいたので、父方の祖父母にとっては初孫ではなかったんですが、伯母は遠方に住んでいてあまり頻繁に行き来できる環境ではなかったんですね。一方、わたしはおじいちゃんおばあちゃんちも車で15分だったんです。そして、それだけでなく、私と父母が住んでた家が、おじいちゃんが社長を務める会社の社宅だったので、家から道路一本渡ったらすぐ会社だったんですよ。おじいちゃんおばあちゃんが会社に出勤してくると、道路一本渡ればすぐに赤ちゃんのわたしに会える…どう考えてもかわいいでしょ…

そして、母方の祖父母にとっては、まごうかたなき初孫。母方のおじいちゃんおばあちゃんの家も近所で車で5分かからないくらいだったし、前述のとおり何かと病院通いが多い子どもだったので、母が実家にヘルプを頼むことも多くて、こちらのおじいちゃんおばあちゃんとも頻繁に会ってました。

 

二歳半頃にはおじいちゃんおばあちゃんの家にお泊まりもするようになり、おしゃべりもだいぶ達者になっていた模様です。私が二歳の時に上の妹が、四歳で下の妹が生まれたので、その時にはアイドルの座をあけ渡したりはしてたと思うんですけど、四十歳すぎてもいまだに、親兄弟、私自身も含めて「父方・母方双方のおじいちゃんおばあちゃんに一番かわいがられていた/いるのは私」という認識です。祖父はどちらももう他界してしまいましたが。

 

ゆえに、わたしは子どものころは、本気で世界の中心は自分だと思ってたし(そういう語彙力とか世界の認識力はないんですけど)、目立つのが好き、注目を集めるのが好き、っていうのはこの頃からだったなって思います。もしかしたら、妹とかが生まれて、アイドルの座を奪われるのが嫌で、注目してしてー!って感じで目立ちたがりになったところもあるのかもしれないけど、もともとの素養もすごくあると思います。

 

なんだかとりとめがないな…

あっ、でもこれだけ書きます。母子手帳にですね「2才半頃から自分で短い物語をつくる」って書いてあって、それを見たらなんだかすごく可笑しくて、ちょっと胸がいっぱいになって、笑いながら少し泣いてしまいました。そんな時からわたしはおはなし作ってたのか!って。そんな小さい頃から、おはなしを作ることが好きだったなら、四十歳過ぎてもまだ創作活動をしていても、こりゃあしかたないなあ、って。

 

しかしこのペースで大丈夫なのか心配になってきました… 次は保育園・幼稚園編かな…?