ここから一歩。

インナーチャイルドときちんと向き合うために、己の足跡をふりかえるブログです。

2020.06.25.幼稚園時代の続き

幼稚園時代については、そんなにたくさん記憶があるわけじゃないんですが、その少ない記憶のどれを取ってみても、今のわたしに繋がることが多くて、三つ子の魂百までって感じがすごくします。

 

登園前に、おかあさんといっしょを見てから遅刻で登園してたわたしですが(この時点でわたし自身も母親もかなりマイペースだな、と思います)、おかあさんといっしょに出たかった… 目立ちたがりの子どもだったので、人前で何かするのが好きで、わりとずーっとテレビには出たいと思っていたような記憶があります。

 

あと、これは以前ワークでお話ししたことがあるのですが、幼稚園の運動会で大太鼓を叩けなかった悲しい思い出があります。

幼稚園の運動会では、カセットテープの入場行進曲にあわせて園児が楽器を演奏しながら、園庭をぐるっと行進するというセレモニーがありました。私自身の年少、年長時代と、妹二人も2回ずつ、計6回に渡って、参加したり見たりしてるので、今でも曲のメロディはうっすら覚えています。楽器は、たしか年少さんがカスタネットで、年長さんが鈴だったような。カスタネットは確かです…

原則みんないっしょの楽器のなかで、大太鼓という特別なポジションがありました。年長さんのなかから、男女各1名ずつのみという狭き門で、立候補募ったのか、先生のご指名だったのか忘れましたが、選ばれし2名だけが大太鼓を担当できるんです。これに選ばれなかったのがめちゃくちゃ残念でした… みんなの前で、たった一人の女子代表に選ばれて、目立って太鼓叩きたかった…

前回のブログに出てきた、初恋の男の子であるジュンくんが男子代表だったこともまた、残念さに追い討ちをかけた感じです。

 

前にも書きましたが、運動は苦手で、すでに幼稚園時代からかなり強いコンプレックスがあったように思います。足の速い子が羨ましかったなあ。しかし、田舎の子どもなので、お外遊びは大好きでした。かなり本を読む子どもでしたが、かと言ってずっとおうちに居るタイプではなく、ジャングルジムやブランコが好きで、どろんこ遊びもしたし、あと、幼稚園の近くの小さな用水路で貝とかサワガニとか捕ったりしました。あの貝なんだったんだろう… タニシくらいのサイズなんですけど、タニシみたいに丸っこくなくて細長い巻貝でした… おままごとも好きだったなあ。おままごとは中学生くらいになるまで好きで、その後、大学でミュージカルサークルに入ってエチュードをやった時に「これはつまり、高度なおままごとでは…???」って思ったのを覚えてます。今思うとTRPGとかもそうですけど、つまり、キャラクターや設定やストーリーなんかを組み立てる遊びが好きだったんですね。

泳げるようになったのもたぶん幼稚園の頃だと思います。母親が泳げなくて、「自分の子どもは泳げるようにしたい」という希望があったそうで、わたしはじぶんのときのことは覚えてないんですけど、妹はちっちゃい時にプールにぶん投げられてたような気がします(笑) ひどい(笑) 泳げるようになった!っていう瞬間はすごい覚えてて、大人用のプールのふちにつかまってバタ足してる時に、手を離したらどうなるかな?って思って、手を離したら沈まなくて、「あっ、わたし今泳げてるじゃん????」って自覚したのでした。たしか、その時、仲良しのお友達にも「こうやったら泳げたよ! やってみなよ!」っておすすめしたりしてたと思います。

 

あと、私自身もお絵描きは好きだったんですけど、別格でものすごーくお絵描き上手な女の子がいたことを覚えてます。こういうふうに描けばいいんだ!って思って、その子の描き方を真似したりしてました。幼稚園児ってそうやって学習するんだなあって今にして思います。

 

幼稚園は、幼稚園バスとかじゃなくて、普通の路線バスで通園してたと思います。本当かな…? 朝はお母さんが車で送ってくれてたかも… 幼稚園の目の前にバス停があったのはすごい覚えてるんですけど、朝にバス停まで歩いて行ってる記憶が小学生の集団登校の記憶しかないんですよね… あとでお母さんに聞いてみよう…

バスに関してめちゃくちゃ憂鬱な思い出があって、あの、バスって降りる時にボタン押すと思うんですけど、なんでかわかんないんですけどうちのお母さんが「ボタンなんか押さなくていいんだよ。『山中(バス停の名前)降ります!』って言えばいい」っていう教育をわたしにほどこしていたんですね… 今思ってもさっぱり意味不明で、強いて言うならもしかしたら子どもがボタンで遊ばないようにっていうことだったのかな…とか考えますが、それにしても意味が不明… わたしは、みんなとひとりだけ違うことするのめちゃくちゃ恥ずかしかったし、案の定友達に奇異の目で見られたりからかわれたりしたんですけど、お母さんにそう言われたから…って、ずいぶん長い間そうやって、自分の降りるバス停に近くなると「ヤマナカおります」ってでっかい声で主張してバスを停めてましたね… イヤだったなあ… かわいそうだな私…(笑)

 

あと、幼稚園時代から、おじいちゃんおばあちゃんの家にお泊まりするようになりました。頻度としては、母方のおじいちゃんおばあちゃんの家の方が多かったですが、父方のおじいちゃんおばあちゃんの家にもわりとよく泊まってたと思います。たぶん。

母方の祖父母の家では、おじいちゃんとおばあちゃんの間に挟まって川の字で寝てました。今思えば、わたし、寝相が激しかったはずなので、おじいちゃんおばあちゃんはめちゃくちゃ蹴っ飛ばされてただろうなあ(笑) 

父方の祖父母の家ではどうやって寝てたか思い出せないんですけど、お風呂上がりにおばあちゃんが自分のスキンケアクリームを私にもちょんちょんってつけてくれたのが嬉しかった記憶があります。

 

母子手帳に「2歳頃から自分でおはなしを作る」って書いてあったんですが、自分ではっきり覚えてるのは幼稚園時代からです。「幼稚園でこういうおはなし聞いた」っていうていで、自分が創作したおはなしをお母さんに話して、その中で『ぜんこうじ』というお寺を登場させたんですけど、お母さんが「牛に引かれて善光寺詣りの善光寺?」って言って、「いやわかんない」っていうような問答をした記憶があります。牛に引かれて善光寺のことほ知らなかったし、そもそも私が適当にでっち上げたお寺だから関係ないですね!!!!(笑) その後、小学生の頃?に買ってもらった、まんが日本昔ばなしの本かなんかに、牛に引かれて善光寺の昔話が載っていて、「これか!!!! 牛に引かれて善光寺!!!!」って、数年越しに答え合わせをしたのも覚えてます(笑) 牛に引かれて善光寺どんな話だったかもう忘れちゃいましたが(笑)

 

まあ、そんな感じで、走ったり縄跳びしたりするのは苦手だけど、泳ぐのとか体を動かすの自体は苦じゃなくて、目立ちたがりの私が、今ダンスが大好きなのも、おはなしを作るのが好きだった私の今の趣味が小説を書くことなのも、もう本当に幼稚園時代からそのまんまだな!!!!!っていう感じです。あとお歌も大好きでした。

なので、わたしは四十過ぎにもなっていまだにあんまり大人になった実感がなくて、でかい幼稚園児のように己のことを認識しているふしがあります。

 

 

2020.06.12.幼稚園時代

42歳の今は、すっかりオタク気質に染まって楽しくやっている私ですが、幼稚園から小学校にかけては、おしゃべりで目立ちたがりやで、クラスみんな友達! いえーい!!! みたいな子どもでした。

 

幼稚園では、ジュンくん(仮)という男の子のことを好きになって、彼がうちに遊びに来る夢を見たことをずっと覚えてます。あと、ジュンくんのことで覚えてるのは、これは好きになってからなのか、それとも好きになるきっかけだったのかは忘れちゃいましたが、彼が、女の子たちに囲まれて、全身をくすぐられてるシーン(笑) どこをくすぐられても、ぜんぜんくすぐったがらない彼を見て「か、かっこいい…!!!」とときめいていました。どの辺がカッコいいツボだったのかは自分でも謎です(笑)

 

まあ、そうでなくともジュンくんは、かけっこも速くて、おめめぱっちりお人形さんみたいなかわいい顔立ちをしてたので、幼稚園児にして既に人気者でした。幼稚園児って、わりともう生まれ持ってる素質や性質は開花してるものですよね。幼稚園メンバーとはその後、中学まで一緒に過ごすことになるのですが、ジュンくんは中学生になってもやっぱり足が速くて陽気なみんなの人気者でした。加えて言えば、私ときたら中学1年生の頃に、またジュンくんを好きになったりとか、しました(笑)

 

朝は、毎日おかあさんといっしょ!を見てから、遅刻でのんびり登園していたそうです。自分ではその辺は覚えてないけど、たぶんこの頃からお寝坊だったと思います。絵本を読むのが大好きで、お絵かきも好きで、おうたが大好きで、お外遊びも大好きでしたが、運動神経が悪くて、長縄跳びがとにかく苦手でした。うまく入れたためしがない。足も遅くて、かけっこはいつもビリ。

あと、おしゃべりしたり、よそ見したりしてるからだと思うんですけど、食べるのも遅くて、いつもお弁当食べ終わるのも最後の1人2人とかだったと思います。

幼稚園には足踏みオルガンがあって、一本指で

♪Are you sleeping? Are you sleeping?

Brother John, brother John〜♪

って弾いてました。まだピアノ習い始める前だったのに、どうして弾けてたのかはわかりません(笑) 母親も歌が好きで歌が上手でしたし、学生時代合唱クラブに入ってたそうで、ピアノも弾けました。だから何かうちでもおもちゃのピアノとか触ってたのかもしれない… 覚えてないです。

母は英語が好きで、保育園とか幼稚園時代から、昔懐かしいカセットテープで英語の歌を聞かせてくれていました。あれはマザーグースかな…??? なので、今でも上記の♪Are you sleeping?♪の歌とか、♪London bridge is falling down♪とか、♪One Little, two little, three little Indians♪とかは、英語の方が耳馴染みがあります。ありますが、それ以上でもそれ以下でもなくて、何なら私は中学生の時に(好きな子の影響で!)英語が苦手になってしまうのでした(笑) という実体験があるせいで、私は英語の幼児教育には否定的な見解を持っています(笑) べつに子供の当時聞かされて嫌だったわけではないですし、英語で歌うとみんなが「すごいね!」って言ってくれるので、得意満面で、わたしすごいでしょ!!!って感じで楽しかったんですけど、それ以上でもそれ以下でもないです(笑)

 

あと、地元のモダンバレエの教室でバレエを習い始めたのも幼稚園時代です。これは、わたしが内股なのを心配して、バレエでもやらせれば治るんじゃないかと思って始めさせた、らしいのですが、結果的に内股はさっぱり治りませんでした!!!(笑) 加えて、当時の田舎のバレエ教室なので、今と違って子供に正しい姿勢を取らせる知識がないもんですから、「背筋を伸ばして、胸を張って!」っていうざっくりした感じで、わたしはものの見事に反り腰のクセがついてしまうことに(笑) それでも、目立ちたがりやで、みんなにちやほやされるのが気持ちいい私にとって、バレエの発表会でステージに立つのは楽しくて、あと、おうちで練習しなくても大丈夫な気楽さが最高に性格に合っていて、中学3年まで続けました。今でも、踊るのが大好きで、親がバレエを習わせてくれたことは、私の人生の宝物です。

 

大人になってから、下の妹と話してて、わたしはバレエもピアノもとにかく発表会が好き! 目立つのが好き!って感じで目立ちたがりやな子どもだったけど、下の妹は、目立ちたくないし、発表会とかまじやめてほしいって思ってたらしいので、同じ親から生まれて同じように育ったきょうだいでも、そんなに小さい時から既に性格が違うんだなあ…ってしみじみしました。

2020.05.28.保育園など

母はわたしが小さい頃は専業主婦でしたが、それでも、妹が生まれて母が私を見てる余裕がなくなったため、1年くらいかな? 保育園に通いました。

わたしは2歳下と4歳下に妹が計2人いて、三姉妹の長女なのですが、あんまり長女っぽくないというか、お姉ちゃんっぽくないです。よく、長女がトトロを見てサツキちゃんに感情移入したりしてるけど、私は特には…って感じで、妹ふたりは年が近かったこともあって、あんまり面倒見たりした記憶がないですね… 小さい頃はふつうに仲良しで、おうちでキャッツアイごっことかしてましたが。

 

まあ、そんな感じでお姉ちゃんな私ですが、一人目の妹が生まれた時には、結構がっつり赤ちゃん返りしたそうです。まあ、そうですよね。世界中でいちばん愛されてて24時間いつでもナンバーワンアイドルだったのに、突然わたし以外のアイドルがどこからともなく世界に出現するわけですよ。もう絶対負けないと思うよね… 仕方ない… 残念ながら小さい頃の記憶でいちばん古いのが幼稚園の頃とかなので、妹が生まれた時のことは覚えてはいないんですけど、その時の驚きと焦りは察するにあまりあるなあと我ながら思います。

逆に、二人目の妹が生まれた時には、既に「かわいいなあ」って思える程度には自分は赤ちゃんじゃないという意識があった気がします。たぶん。二人目の妹が赤ちゃんの頃に、鼻がすごく低くて心配してて、お母さんに「●●ちゃんの鼻こんなに低くて大丈夫なの…?」って聞いて「赤ちゃんだからだよ」って言われたけど、赤ちゃんじゃなくなっても妹の鼻は低かったですね…(笑) 大人になった今は、別に低いってほど低くないけど、幼稚園くらいの頃とかはぺちゃ鼻だったと思います。「●●ちゃんの鼻、高くならなかったね…」とかって言ってた気がする(笑)

 

この頃だと思うんですけど、わたしがアニメ『キャンディ・キャンディ』の主題歌をうたってるのを親が録音してたのがあって、大きくなってからみんなで聞いて爆笑したりしてました。

 

保育園のことはあんまり覚えてないんですが、『七ひきの子やぎ』の劇をやって、わたしがお母さんヤギの役をやったことと、あと、まったくお昼寝しない子だったことはすごく覚えてますね… 今となっては隙あらば寝ることしか考えてなくて、三度の飯より睡眠が好きな私だというのに、当時はみんなが寝てる横で絵本読んでました。たぶんあまりにも寝ないから保育士さんたちもあきらめたんだと思う…(笑)

2020.05.27.いちご事件

わたしが赤ちゃんの頃のエピソードで、親戚中の鉄板ネタをひとつ。

一歳半くらい? わすれちゃったんですが、まあ、赤ちゃんは赤ちゃんだけど、ひとりで歩いたりちょろちょろできる程度には育ってて、離乳食とかも既に始まってたあたりのはなしです。

何度聞いても詳細をすぐ忘れちゃうんですけど、たぶん、なんか来客があって、母がお客さまにお出しするために、いちごを洗ってお皿に盛りつけてたやつがあったんですね。母が何かしら目を離したすきに、赤ちゃんだったわたしが、案の定それをつまみ食いしたわけです(笑)しかも、ちょうど口に入れるのにちょうどいいサイズだったんでしょうね、いちごの、さきっぽの尖った、いちばん甘いところだけ(笑) ぜーんぶ、さきっぽだけかじってあるいちご(笑) ひどい(笑)

 

わたしの赤ちゃんの時の話すると、もうかならずこの話が出て来るので、何度聞いたかわかんないです(笑)ネタとしては面白いけど、いちごって安くないし、かわいいけど困ることはめちゃくちゃ困るし、やられた時はお母さんはたぶん「えーーーーーーーー」っていう気持ちだったんじゃないかと思います(笑)

2020.05.22.母子手帳

赤ちゃんの頃のこととか覚えてない… と思って、母子手帳を出してきたんですけど、2歳で斜視の検査で医大に行ったり、手足口病やったり、3歳半くらいの頃に肺炎で入院したり、4歳で水ぼうそう、6歳ではしか…とまあ、ほぼ毎年病院イヴェントがあり、本当に親は大変だっただろうな… と、つくづく思います。

 

父と母は、背景は違えどそれぞれ苦労して育ったひとたちです。まあ、私が生まれたのは地方も地方のド田舎で、親世代で苦労してないひとなんていないようなところでしたが。

父は終戦数か月前に満州で生まれました。生まれてすぐに父の母(つまり私のおばあちゃん)が亡くなって、私のおじいちゃんと大叔父さんがものすごい苦労をして、父と伯母をつれて内地に引き上げて来たそうです。その後おじいちゃんは再婚。つまり、私にとっての「父方のおばあちゃん」は、父にとってはいわゆる継母というわけです。その後、父方のおばあちゃんは実子である私の叔母をさずかりましたので、連れ子と実子が混在したきょうだいだったわけで、たぶん、親子関係きょうだい関係色々思うところがあったと思います。

その、父にとっての継母、わたしにとっての父方のおばあちゃん、も、若い頃にとても苦労をしたひとで、自分の苦労の経験から、絶対に子どもには学問をさせたいという強い信念を持っていました。子どもに高等教育を受けさせるために、と、獣医であった父方のおじいちゃんに起業を促し、実際に長男である私の父と、伯母と叔母を全員東京の学校に進学させたんですから、本当に信念の人だったんだなあと思います。

そうやって大学に進学、そして卒業後はおじいちゃんの興した会社を継いだ父は、しっかり親のレールの上を走る、まさにザ・田舎の長男って感じの半生を歩んできたわけです。跡取り息子なのでめちゃくちゃたくさんお見合いをして、最終的に母ともお見合いで結婚したのは31歳。当時にしてはかなり遅いです。いろんな周りからのプレッシャーに鬱屈があっただろうなーと思います。

 

父は、姉と妹に挟まれた長男でしたが(そして妹は母違い)、母は兄と弟に挟まれた長女でした。母がまだ、中学生?とかそのくらいに、母の父(私の母方のおじいちゃん)が重度のリウマチになり、一家の大黒柱が突如働けなくなってしまったそうです。当時はまだ林業がさかんな時代で、おじいちゃんは兼業農家で馬車引きをやってて、山から切り出した木を運んできたりしてたらしいのですが、もちろん退院したあとも力仕事はもうできなくなってしまったわけで。五十歳前にして、母方のおじいちゃんはほぼセミリタイアみたいな感じで、そのぶん母方のおばあちゃんが生命保険のセールスで稼いで、家事は子どもがやっていたらしいです。その後、母方のおばあちゃんはずっと保険の仕事を続けて、私が二十代なかばからおばあちゃんの部下になって働いたりするわけですが…

母の兄と弟も、当時の地方にしてはめずらしく、東京の大学に進学しています。たぶん当時って、田舎では高校に進学しないひともそこそこたくさんいたはずなので、父も母も当時としてはかなり高学歴だったはずです。母方のおじいちゃんおばあちゃんは、母のことも大学に行かせるつもりがあったようですし、母は高校時代成績も良かったようですが、母自身は親が三人の子どもを大学に行かせることの経済的苦労などを鑑みて、自分で勝手にさっさと東京に就職を決めてしまい、上京。高給取りで数年勤めて、なんだっけ、忘れちゃったけどおじいちゃんかおばあちゃんが病気して実家に戻ったんじゃなかったかな… そう長く働いたわけではないけど、当時の同僚とは今でも仲良しです。そして、実家に戻って、まあ結婚してもいいし、結婚しなかったら北海道に行ってホテルに勤めたいなと思ってたらしいですが、八歳年上の父とお見合いして、ティンと来て結婚したそうです。

 

まあ、そんな背景があって、結婚1年くらいで生まれたわたくし。

いやあ、かわいかったと思いますよ(笑) なにせ、結婚の遅い長男、しかも会社経営してて後継ぎ必須というなかでの待望の第一子。父方の伯母(父の姉)にはすでに二人子どもがいたので、父方の祖父母にとっては初孫ではなかったんですが、伯母は遠方に住んでいてあまり頻繁に行き来できる環境ではなかったんですね。一方、わたしはおじいちゃんおばあちゃんちも車で15分だったんです。そして、それだけでなく、私と父母が住んでた家が、おじいちゃんが社長を務める会社の社宅だったので、家から道路一本渡ったらすぐ会社だったんですよ。おじいちゃんおばあちゃんが会社に出勤してくると、道路一本渡ればすぐに赤ちゃんのわたしに会える…どう考えてもかわいいでしょ…

そして、母方の祖父母にとっては、まごうかたなき初孫。母方のおじいちゃんおばあちゃんの家も近所で車で5分かからないくらいだったし、前述のとおり何かと病院通いが多い子どもだったので、母が実家にヘルプを頼むことも多くて、こちらのおじいちゃんおばあちゃんとも頻繁に会ってました。

 

二歳半頃にはおじいちゃんおばあちゃんの家にお泊まりもするようになり、おしゃべりもだいぶ達者になっていた模様です。私が二歳の時に上の妹が、四歳で下の妹が生まれたので、その時にはアイドルの座をあけ渡したりはしてたと思うんですけど、四十歳すぎてもいまだに、親兄弟、私自身も含めて「父方・母方双方のおじいちゃんおばあちゃんに一番かわいがられていた/いるのは私」という認識です。祖父はどちらももう他界してしまいましたが。

 

ゆえに、わたしは子どものころは、本気で世界の中心は自分だと思ってたし(そういう語彙力とか世界の認識力はないんですけど)、目立つのが好き、注目を集めるのが好き、っていうのはこの頃からだったなって思います。もしかしたら、妹とかが生まれて、アイドルの座を奪われるのが嫌で、注目してしてー!って感じで目立ちたがりになったところもあるのかもしれないけど、もともとの素養もすごくあると思います。

 

なんだかとりとめがないな…

あっ、でもこれだけ書きます。母子手帳にですね「2才半頃から自分で短い物語をつくる」って書いてあって、それを見たらなんだかすごく可笑しくて、ちょっと胸がいっぱいになって、笑いながら少し泣いてしまいました。そんな時からわたしはおはなし作ってたのか!って。そんな小さい頃から、おはなしを作ることが好きだったなら、四十歳過ぎてもまだ創作活動をしていても、こりゃあしかたないなあ、って。

 

しかしこのペースで大丈夫なのか心配になってきました… 次は保育園・幼稚園編かな…?

2020.05.20.まずは出生

つきのひかりと申します。

なるべく赤裸々に色々書こうと思って、

そうすると私自身だけじゃなくて家族のプライヴァシーもご開帳することになってしまうため、それは私が非常に居心地が悪いので、普段使わない名前で、普段使わないブログを使って、書くことにしました。私自身のことは別にいいんですけども。

 

今日はまずは短く。出生のこと。

予定日よりも、ほぼきっちり4週間早く生まれました。分娩室に入ってからも、あれよあれよという感じで出て来て、母よりも先に隣の分娩室に入った人よりも、母の方が早く出てきたそうです。

2,800gくらいで、当時としては小さく、また、黄疸がひどかったため、保育器に入ったとかギリギリ入らなかったとかそんな話だった気がします。入らなかったんだっけ…? 忘れました。

せっかちに出て来るわ、黄疸はひどいわ、 あと、中学に上がるくらいまでは、 とにかく熱をすぐに出す子どもだったので、 たぶん両親は、この子本当にちゃんと育つのかな… ってものすごく心配したこともたくさんあったと思います。 おかげさまで元気に42歳です。

今日はここまで。